資 料 雑 考

小島 浩之


 知人の紹介で全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(全史料協)関東部会の5月月例研究会 に飛び入り参加させていただいた。5月のテーマは“国立公文書館アジア歴史 資料センターについて及び国立公文書館本館内の施設見学”であった。言うまでもなくアジア歴史資料センターは国の機関が保存するアジア歴史資料をインターネットを通じて公開する機関で、漢字文献情報処理研究会の掲示板や機関誌『漢字文献情報処理研究』でも何度か採り上げられたことがある。無理を言って参加させていただいたのは、筆者が現在携わっている業務の中に資料の電子化があり、参考のために情報を仕入れたいと考えたからなのであった。アジア歴史資料センターの担当者の方々に話を聞き、これで目的は達したかのように満足していたが、最後に見学した国立公文書館の修復室で思わぬ拾いもの?をしてしまい、最近これにはまっている。


 実は修復室で簡単な紙文書の補修を教えていただいたのである。筆者の勤務先には未整理のものも含めて戦中・戦後の資料が膨大にある。これらの資料は酸性紙で加えて粗悪で、保存の悪さもあってかかなり状態が悪い破れるとか壊れるといった表現より崩れるといったほうが適切で、跡形も無くなってしまうのはもはや時間の問題である。また我が家の中国書も80年代以前に出版された標点本や研究書は、いま勤務先で崩れている紙に勝るとも劣らない?紙質で、いずれ同じような運命を辿るのであろうと思われる。


 筆者は以前から資料の補修には興味を抱いていたし、それなりに勉強もしてきたのだが、次の二つの理由から実践できなかった。一つは糊の問題である。補修用の糊で最も良いのは生麩糊(しょうふのり)と呼ばれるものだ。これは字の通り麩の原料となる小麦粉のグルテンである。小麦粉を煮詰めて糊を作り、水で溶いて使う。“舌切りすずめ”の話はお婆さんが作った糊を雀が食べることから始まるが、この雀が食べた糊はまさに生麩糊なのだ。しかしこの糊、まず煮詰めて作ることが大変である。手間もかかるし、作るとなるとある程度の量になってしまい、少量というわけにはいかない。加えて生モノだから賞味期限?も早い。修復・表装の専門機関ならば良いが、片手間に補修をしたい場合や、個人の場合ではどうも使い勝手が悪い。第二は資料自体の問題である。近現代の資料は両面に印刷や記述のある資料が多い。したがって簡単に裏打ちして補強するというわけにはいかない。下手に裏打ちすると文字が読めなくなってしまう危険性を孕んでおり、素人では迂闊 に手を出せなかった。


 しかし今回教えていただいた方法は画期的なもの、まさに目から鱗の手法であった。まず糊作りだが電子レンジを使うというのである。生麩粉を水で溶き(生麩粉:水=1:5)、電子レンジで10秒加熱して混ぜるという作業を数回繰り返す。作る量にもよるが3〜4回繰り返すことで糊状になる。これならば、いつでも使いたい分だけの糊が作れ、腐敗させてしまうようなことも無い。補強用の和紙も非常に薄いものを使う。紙の向こうが透けて見え、力を入れ過ぎれば破れてしまうほど薄い。これを字が書いてある面から破損部分にあて、刷毛で麩糊を塗り、乾けば補修の出来上がりとなる。薄い和紙を使った裏打ちならぬ “表打ち”はまさにコロンブスの卵であった。


 薄い和紙なので上からの補強でも文字は十分読める。単独であれば破れやすい弱い和紙であるのに、糊で貼り付いてしまうと非常に丈夫で、改めて和紙のすごさを思い知らされた。もちろん最終的にはきちんとした補修や裏打ちをするに越したことはないが、応急処置としては十分すぎるほどだろう。ちなみに乾いてしまっても再び水で濡らせば、補強した和紙を簡単に取り除けるので、後々本格的な補修をする場合でも影響を最小限に押さえられる。


 これを習ってからというもの、必要な道具・材料をすぐさま買い求め(紙や生麩糊は和紙を取り扱う店や画材屋で手に入る。(筆者は紙舗直を利用した。)、毎日時間を見つけては資料の応急手当に精を出している。最初は失敗も多かったが、いろいろ挑戦するうちに、だいぶコツがつかめてきた。製本屋から資料のシワを綺麗に延ばす方法も教えてもらい、これも上手くいくようになった。もちろん筆者の補修など素人の域を超えるものではなく、専門家から見たら物笑いの種になるかもしれない。しかし専門家による本格的な補修の予算が付くまでじっと待つほど悠長にしていられない。それほど資料の劣化は逼迫した状況なのである。


 考えてみるに資料保存ということでは、現代は憂慮すべき問題を多々抱えている。先に述べたように戦中〜戦後(昭和40年代)にかけての紙というのは非常に劣化が激しい。中国などはつい最近まで本当に粗悪な紙を使っていた。このままいけば、数百年前の原本が劣化するより、何倍も早くその標点本や研究書が木っ端微塵になってしまうだろう。デジタルデータにしても、CDなどはせいぜい20年が限度と言われている。デジタルデータそのものの永久性が強調されるため勘違いされやすいが、媒体自体の強度は弱いのである。加えて媒体や、保存型式が多種多様で変化が激しいのも困りものである。筆者の職場には、5インチのフロッピーに保存されたデータが大量にあり、どうしたものかと頭を抱えている。


 1000年前の資料は丁重に扱われ、予算もつけてもらえるが、100年以内の資料はあまり手を掛けてもらえない。しかしこの100年の間の資料の方が1000年前の資料の何倍も壊れやすく、また媒体の変化による影響を受けやすい。時間的な古さや希少性だけで資料保存に掛ける手間暇を決定してはいけないのである。筆者は毎日壊れた資料に触れながら、文献学に携わる方全てに今一度、資料というものについてその媒体を問わず考えていただきたいと強く思っている。いま対処しなければ手遅れになる資料がある。資料が無くなってしまってからでは遅いのである。

 


初出 "漢字文献情報処理研究会メールマガジン"第37号(2003.7.15)


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