- 貝貨
左--銅製貝貨。BC500、周代以降。戦国時代末期。副葬品ではないかという説もあ
る。蟻に似ているために「蟻鼻銭」と呼ばれる。刻まれた文字は「全」。
発行鋳造年 BC280-220
右--BC1200年以降の古墳から発掘されたもの。中国古代の流通財として知られてい
る。南方方面で採れる宝貝、子安貝で、装身具として貴重であった。日本では、
貨幣として扱っているが、中国では必ずしも貨幣として位置付けていない面も
ある。
- 空首布 尖肩尖足大空首布
中国で金属を特定の形に鋳造した鋳貨が出現した時期は、西周末期・春秋前期であ
るといわれる。尖肩尖足大空首布(銅製、151.4×70.0mm, 35.8グラム)も、紀元
前600年以降の周代に鋳造されたと考える。このような鋳貨は上部が赤みを帯びた
焼土が充填されているものの、空洞であるために空首布と称される。空首布は古代
の農具をかたどったものであり、農耕用の小さいすきと同音の「布」の字をあてて
いる。
- 平首布 円肩湾股布(左) 有耳布(右)
農具の形態をとどめている空首布の「空首」は、貨幣が頻繁に用いられるように
なるにつれて、「平首」へと変化した。
円肩湾股布(左)
中国の戦国時代末期、紀元前300〜200年に鋳造された青銅の布幣(54.2×40.0mm
13.8グラム)。肩部が丸みを帯びており、足部が湾曲しているので、円肩湾股布と
称される。幣面には「梁正尚金当孚」という文字が見える。経済学部には同じ文字
が記されている円肩湾股布が所蔵されているが、これは文字の配列が逆になってい
て、文字は右から左、地名は左から右に記されている、いわゆる戦国布幣の「伝型」
としてきわめて稀少な鋳貨である。
有耳布(右)
中国の戦国時代、紀元前403〜220年に河南省盧氏県の涅金で鋳造された青銅製の鋳
貨(72.2×42.0mm 15.8グラム)。首部の両端が突出しており、有耳布と称されて
いる。
- 刀幣 方首小刀(上) 斉の反首布(下)
中国の春秋・戦国時代、漁業・牧畜業や手工業が発達した沿岸部の斉や北方の燕で
は、青銅製の工業用小刀が交換手段として用いられ、これらの地域の鋳貨の形態と
なったと考えられている。
方首小刀(上)
戦国時代の銅製の刀幣(98.2mm 9.3グラム)で、趙国の晋陽で鋳造されたと考えら
れている。尖端は方形で、柄部には縦線がなく、かなり小さな刀幣である。現存し
ているものはきわめて少なく、貴重な収蔵品の一つである。
斉の反首布(下)
戦国時代の青銅の刀幣(182mm 48.8グラム)で、幣面の文字が大字なので大字刀と
もいわれる。この文字は、従来は「齊造邦長法化(=貨)」と読むことが多かった
が、近年「齊造邦長大化」と読む説が有力になってきており、斉の開国記念貨幣で
あることがわかる。斉刀にはいくつかの種類があるが、史料や出土状況からみて、
この「齊造邦長法(大)化」は同類の反首布のなかでもっとも少なく、貴重な史料
である。
- 開元通宝(左) 半両貨(右)
開元通宝(左)
唐代を通じて長く流通した貨幣。「寶」字を使用した最初の貨幣。和同開珎はこれ
を模して作成したものである。円に方孔については、円は天、孔は地をあらわし、
これで天地を表すという説もあるが、当時の貨幣は鋳型によって作られており、周
りにぎざぎざができてしまうため、四角い穴をあけて、四角い棒を通し、固定した
上でギザギザを切り取ったというのが、実体のようである。
青銅製。発行鋳造年 621年〜845年
半両貨(右)
秦の始皇帝が中国を統一して、正規の統一貨幣として発行した貨幣。量は重量単位
の名称で、きび100粒が一銖で24銖を一両とした。したがって、半両貨はその半分
の価値をしめしている。青銅製。円形方孔は、これから約2000年間踏襲することと
なる。
発行鋳造年 BC221
- 和同開珎<銀>(左) 和同開珎<銅>(右)
和同開珎
わが国の政府によって最初に作られた貨幣。(ただし、近年発見された富本銭を最
古の貨幣とする説もある)708年、武蔵国秩父郡から自然銅が産出し、朝廷に献上
された。めでたいこととして年号を和銅と改め、鋳銭司を置き、遣唐使が持ち帰っ
た「開元通宝」をモデルとして和同開珎(銀銭、銅銭)を鋳造した。銀銭(左)は
現存するものきわめて稀である。田の売買に銭貨をもって価とし、もし他の物をも
って売買すると田および使用したものを没収する、蓄銭叙位令を発布して蓄銭者に
位を授ける、調、庸を物に替えて銭で納めさせる、役人の給与に物のほか、銭を与
える、などの政府の流通政策によって、和同銭は京畿を中心に上層階級を主体とし
てかなりの程度にまで流通していた。和同開珎は和銅元年(708年)から天平宝字4
年(760年)にいたる52年間にわたって鋳造された。
- 皇朝十二銭 乾元大宝(左)隆平永宝(右)
皇朝十二銭 和同開珎から乾元大宝までの貨幣をいう。
乾元大宝(左)
銅73%〜3%、鉛92%。最後の皇朝銭。この後、500年間は独自の貨幣制度は成立せず、
輸入貨幣に依存していた。鋳造発行年 958年
隆平永宝(右)
平安時代最初の銭貨。平安京遷都と蝦夷征伐の経費にあてたもの。
- 鐚銭(びたせん) 祥符元宝(左) 開元通宝(右)
平安時代末期以降、皇朝銭の鋳造が禁止されていたために、大量に流入された中国
の銅銭(渡来銭)が、日本の貨幣として流通していた。しかし、室町時代以降、渡
来銭だけでは必要な貨幣量をみたすことができなくなった。そこで渡来銭を真似た
銅製の私鋳銭(模造銭)が全国各地、広い範囲で鋳造された。これらの鋳造期間は、
室町中期から江戸初期までの長期間にわたっており、きわめて多様なものが現存し
ている。
左は、中国唐の「開元通宝」、右は宋の「祥符元宝」を真似て作られた私鋳銭
(左:23.9mm,3.1グラム 右:23.9mm,3.5グラム)である。これらの私鋳銭は渡来
銭をそのまま型どるなど、母型から正式な過程を経て鋳造されたものではなく、粗
悪な鋳貨であるために、渡来銭の良貨と区別されて、鐚銭(びたせん)とよばれる
ようになった。そして鐚銭の受け取り拒否や撰銭(えりぜに)といった割り増し要
求が15世紀後半になると頻繁に行われるようになる。16世紀末には良銭1枚が悪銭
(鐚銭)2〜10枚にも相当していた。
- 中国渡来銭 (左から)永楽通宝 建炎通宝 宣和元宝 嘉祐元宝 至和元宝
永楽通宝
輸入された明銭。他の明銭と比較して輸入量が多く、形や品質もほぼ一定していた
ため、東国を中心としてひろく流通した。永楽銭が広まると領主の取り立てる課税
も永楽銭で計上されるようになり、その結果、東国では永楽銭による貫高を永高と
呼ぶに至った。江戸初期まで流通した。
建炎通宝
真書体と篆書体とがあり、書風の変化が多い。23.2mm 3.2グラム
発行鋳造年 1127年〜1130年(南宋)
宣和元宝
真書・篆書体あり。書風に変化があるが、いずれも現存は少ない。
発行鋳造年 1119年〜1125年(北宋末)
嘉祐元宝
真書・篆書体あり。
発行鋳造年 1056年〜1063年(北宋)
至和元宝
- 上代方金(左)上代判金(右)
いずれも16世紀末、日本で鋳造された金貨である。当時の金貨は不定量目であり、
裏面に量目が墨書されている。のちに一定金額を表す計数貨幣へと発達する前史と
して貴重な資料である。上代方金(左:7.77×4.02cm, 34.7グラム)は長方形の金
板であり、楕円形の金板が多いなかで、現存する方金としてきわめて貴重な古貨幣
である。裏面には九匁四分と墨書されており、表面には槌目のほかに雁金模様の小
印が施されている。上代判金(右:12.92×7.82cm,166グラム)の裏面には四十四
匁一分と墨書されており、足利将軍家の彫金師「後藤家」のサインがあり、天正大
判の前身として注目される。
- 駿河墨書小判(左) 天正大判(右)
天正大判(右)
豊臣秀吉が作った物で、恩賞金として鋳造されたものといわれている。
44匁(165グラム) 品位70〜74%
墨書小判(左)
慶長小判の先駆をなすもの。駿河国の中村氏(豊臣家家臣)によるものとみられる。
16.7グラム 品位88%
- 永楽通宝御紋金銭(左上) 太閤円歩金(左中) 天正通宝銀銭(左下) 天正大判(右)
太閤円歩金(左中)
小桐紋5個。中央に花押あり。
4.5グラム、85%。
永楽通宝御紋金銭(左上)
豊臣秀吉が島津征伐の際、戦功のあた大名にあたえたもの。現存する唯一品といわ
れている。
- 慶長小判(左上) 慶長一分金(左下) 慶長大判(右)
徳川家康は、政治機構の整備に先だって、慶長6年(1601年)5月、全国流通を目
的とした金、銀貨を鋳造し、これを中央統一貨幣として発行することとした。慶長
金・銀がこれである。慶長金には、大判、小判、一分金がある。慶長大判は、慶長
6年から元禄8年の94年間に16,565枚鋳造された。一枚の両目は44.1匁で品位は小
判と関係なく定められ、一般に使用される場合は金の含有量により他の通貨に換算
された。その割合は、大判一枚で7両2分といわれている。品位80% 165グラム
制作者後藤四郎衛の筆になる慶長大判は白米5石5斗買えたという記録がある。
現在の貨幣価値にして40万円くらいであるが、当時庶民の主食が米とは考えられな
いので、現在の米の感覚でははかれない。
- 慶長小判(左上) 慶長一分金(左下) 慶長大判(右)
慶長小判(左上・左下)左右に細い線状の切込みがあり、これをゴザ目という。ゴ
ザ目は天正大判の頃は槌目といい、大判を引き延ばす際に槌でたたいたといわれて
いるが、後に装飾用に目をつけるようになったといわれている。それがゴザ目へと
変化してきたが、ゴザ目は装飾用であるとともに、内容に偽りがないという証明に
もしていたようである。
品位84% 17.7グラム
- 慶長豆板銀(上) 慶長大黒丁銀(下)
慶長銀丁銀はなまこ形で重さ30〜50匁であり、大きさは一定ではない。豆板銀は重
さ、形、大きさとも一定ではなく、円い小型のものが多く、小粒ともいわれた。両
銀とも秤量貨幣で、貫、匁、分、厘の単位で用いられた。丁銀(下)は高額貨幣、
豆板銀(上)は低額貨幣として用いられた。品位は80%。当時の交換率は金一両=銀
50匁であった。
- 寛永通宝(左) 慶長通宝(中) 元和通宝(右)
寛永通宝
寛永13年(1636)、多量に鋳造され、これで金、銀、銅の三貨が出揃い、我が国最初
の貨幣制度が確立した。当時の公定相場は金1両=銀50匁=銭4貫。永楽銭の使用
は禁止された。
- 金含銀二分判(左上) 福知山三十匁銀(左中)
福知山十五匁銀(左下) 盛岡七匁銀判(右上)
但馬壱両銀判(右下) 金含銀二分判(左上)
小判と同型式であるが、表面に「金弐分」裏面に「金含銀」の刻印あり。金分を若
干含んだ銀貨として金座内で試作されたもので、現存、本品のみである。
福知山三十匁銀(左中)
表面に「銀三拾匁」、裏面に「福知山」とある。銀三十匁とあるが、実体は三匁二
十八であり、10分の1にすぎない名目的なものであり、おそらく試鋳のものであろ
う。
26.4×19.3mm 12.3グラム
発行鋳造年代 江戸時代末期
発行鋳造地 丹波福知山
盛岡七匁銀判(右上)
表面に「七匁」裏面右下部に「山」字の極印が打たれている。八匁銀判製造の折、
試鋳されたものといわれている。現在本品を見るのみの大稀品。
72.2×51.0mm 26.25グラム
発行鋳造年代 慶応4年(1868)
発行鋳造地 盛岡
但馬一両銀判(右下)
表面上部に「壱両」下部に「但馬」の文字があり、小判(金製)の形式ににている。
記録を求め得ないが、但馬生野銀山で製造のものと推定される。
71.5×38.0mm 14.75グラム
発行鋳造年代 江戸時代中期(17〜18世紀)
- 安政一分銀(左上下および右下)メキシコ銀(右上)
安政5年(1858年)6月、幕府は開国し、諸外国と条約を結んだ。洋銀1枚(1ドル、
87%、7.2匁)と日本の一分銀三枚と交換となった。この後、7匁以上の両目のある
洋銀は国内で三分で通用させることとしたため、安政6年12月、7匁以上の洋銀に
「改三分定」と刻印した。
安政条約により、外国貨幣と日本貨幣との交換や輸出が認められた。外国人が洋
銀を日本に持ち込んで1枚を日本の銀3枚と交換する。その上で、銀4枚と小判1
枚と交換する。小判1枚を再び銀4枚と交換する。その結果として持ち込んだ3枚
の洋銀が12枚の銀となる。このために当時、横浜から海外へ流出した金は30万両と
いわれ、全国規模では50万両の金が流出したという計算もある。
- 万延二分金(左上) 万延一分金(左下) 万延小判(中) 安政小判(右)
万延二分金(左上)万延一分金(左下)万延小判(中)
万延元年4月、小判、一分金を鋳造した。
安政小判(右)
品位57% 9グラム