経済学研究科所蔵の古貨幣コレクション

経済学部が所蔵するにいたった経緯
 故藤井栄三郎氏が蒐集、本学部に寄贈した東洋諸国の古代から近代にいたるまで
の古貨幣コレクションである。
 藤井氏は、東京本所で科学工場を経営していた実業家(タカジアスターゼの創成
者高峰譲吉博士の実弟にあたる)であるが、大正3年東京古銭協会(のち東洋貨幣
協会となる)の会員となり、独自の方針で古銭を蒐集したのであるが、東京霊岸島
の藤井家の倉にあったコレクションは関東大震災にも被災しなかった。その後藤井
氏は慶応義塾大学の滝本誠一教授を経て本学部土屋喬雄名誉教授(当時助教授)の
紹介により故山崎覚次郎名誉教授(当時教授)を通じ、本学部にコレクションの寄
付を申し出て、昭和2年正式に寄贈されたものである。
 総数12,000個を越えるこのコレクションは、日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵
のコレクション(古貨幣蒐集家田中啓文氏が太平洋戦争中寄付したもの)とならぶ、
日本で最大規模の東洋古貨幣コレクションの一つであるが、その内訳は次の通りで
ある。


   日本 2,715     
      (内訳) 方金      1
           大判      11
                小判      25
                判金(小粒) 100
                その他   2,578
   琉球   22
   韓国  2,106                     
   中国  6,369
   安南    838
   東亜     159
   -----------------------
   総計 12,209
   
  1. 貝貨
    左--銅製貝貨。BC500、周代以降。戦国時代末期。副葬品ではないかという説もあ
      る。蟻に似ているために「蟻鼻銭」と呼ばれる。刻まれた文字は「全」。
      発行鋳造年 BC280-220
    右--BC1200年以降の古墳から発掘されたもの。中国古代の流通財として知られてい
      る。南方方面で採れる宝貝、子安貝で、装身具として貴重であった。日本では、
      貨幣として扱っているが、中国では必ずしも貨幣として位置付けていない面も
      ある。
    
    
  2. 空首布 尖肩尖足大空首布
    中国で金属を特定の形に鋳造した鋳貨が出現した時期は、西周末期・春秋前期であ
    るといわれる。尖肩尖足大空首布(銅製、151.4×70.0mm, 35.8グラム)も、紀元
    前600年以降の周代に鋳造されたと考える。このような鋳貨は上部が赤みを帯びた
    焼土が充填されているものの、空洞であるために空首布と称される。空首布は古代
    の農具をかたどったものであり、農耕用の小さいすきと同音の「布」の字をあてて
    いる。
    
  3. 平首布 円肩湾股布(左) 有耳布(右)
    農具の形態をとどめている空首布の「空首」は、貨幣が頻繁に用いられるように
    なるにつれて、「平首」へと変化した。
    
    円肩湾股布(左)
    中国の戦国時代末期、紀元前300〜200年に鋳造された青銅の布幣(54.2×40.0mm
    13.8グラム)。肩部が丸みを帯びており、足部が湾曲しているので、円肩湾股布と
    称される。幣面には「梁正尚金当孚」という文字が見える。経済学部には同じ文字
    が記されている円肩湾股布が所蔵されているが、これは文字の配列が逆になってい
    て、文字は右から左、地名は左から右に記されている、いわゆる戦国布幣の「伝型」
    としてきわめて稀少な鋳貨である。
    
    有耳布(右)
    中国の戦国時代、紀元前403〜220年に河南省盧氏県の涅金で鋳造された青銅製の鋳
    貨(72.2×42.0mm 15.8グラム)。首部の両端が突出しており、有耳布と称されて
    いる。
    
  4. 刀幣 方首小刀(上) 斉の反首布(下)
    中国の春秋・戦国時代、漁業・牧畜業や手工業が発達した沿岸部の斉や北方の燕で
    は、青銅製の工業用小刀が交換手段として用いられ、これらの地域の鋳貨の形態と
    なったと考えられている。
    
    方首小刀(上)
    戦国時代の銅製の刀幣(98.2mm 9.3グラム)で、趙国の晋陽で鋳造されたと考えら
    れている。尖端は方形で、柄部には縦線がなく、かなり小さな刀幣である。現存し
    ているものはきわめて少なく、貴重な収蔵品の一つである。
    
    斉の反首布(下)
    
    戦国時代の青銅の刀幣(182mm 48.8グラム)で、幣面の文字が大字なので大字刀と
    もいわれる。この文字は、従来は「齊造邦長法化(=貨)」と読むことが多かった
    が、近年「齊造邦長大化」と読む説が有力になってきており、斉の開国記念貨幣で
    あることがわかる。斉刀にはいくつかの種類があるが、史料や出土状況からみて、
    この「齊造邦長法(大)化」は同類の反首布のなかでもっとも少なく、貴重な史料
    である。
    
  5. 開元通宝(左) 半両貨(右)
    開元通宝(左)
    唐代を通じて長く流通した貨幣。「寶」字を使用した最初の貨幣。和同開珎はこれ
    を模して作成したものである。円に方孔については、円は天、孔は地をあらわし、
    これで天地を表すという説もあるが、当時の貨幣は鋳型によって作られており、周
    りにぎざぎざができてしまうため、四角い穴をあけて、四角い棒を通し、固定した
    上でギザギザを切り取ったというのが、実体のようである。
    青銅製。発行鋳造年 621年〜845年 
    
    半両貨(右)
    秦の始皇帝が中国を統一して、正規の統一貨幣として発行した貨幣。量は重量単位
    の名称で、きび100粒が一銖で24銖を一両とした。したがって、半両貨はその半分
    の価値をしめしている。青銅製。円形方孔は、これから約2000年間踏襲することと
    なる。
    発行鋳造年 BC221 
    
  6. 和同開珎<銀>(左) 和同開珎<銅>(右)
    和同開珎
    わが国の政府によって最初に作られた貨幣。(ただし、近年発見された富本銭を最
    古の貨幣とする説もある)708年、武蔵国秩父郡から自然銅が産出し、朝廷に献上
    された。めでたいこととして年号を和銅と改め、鋳銭司を置き、遣唐使が持ち帰っ
    た「開元通宝」をモデルとして和同開珎(銀銭、銅銭)を鋳造した。銀銭(左)は
    現存するものきわめて稀である。田の売買に銭貨をもって価とし、もし他の物をも
    って売買すると田および使用したものを没収する、蓄銭叙位令を発布して蓄銭者に
    位を授ける、調、庸を物に替えて銭で納めさせる、役人の給与に物のほか、銭を与
    える、などの政府の流通政策によって、和同銭は京畿を中心に上層階級を主体とし
    てかなりの程度にまで流通していた。和同開珎は和銅元年(708年)から天平宝字4
    年(760年)にいたる52年間にわたって鋳造された。
    
  7. 皇朝十二銭 乾元大宝(左)隆平永宝(右)
    皇朝十二銭 和同開珎から乾元大宝までの貨幣をいう。
    乾元大宝(左)
    銅73%〜3%、鉛92%。最後の皇朝銭。この後、500年間は独自の貨幣制度は成立せず、
    輸入貨幣に依存していた。鋳造発行年 958年
    隆平永宝(右)
    平安時代最初の銭貨。平安京遷都と蝦夷征伐の経費にあてたもの。
    
  8. 鐚銭(びたせん) 祥符元宝(左) 開元通宝(右)
    平安時代末期以降、皇朝銭の鋳造が禁止されていたために、大量に流入された中国
    の銅銭(渡来銭)が、日本の貨幣として流通していた。しかし、室町時代以降、渡
    来銭だけでは必要な貨幣量をみたすことができなくなった。そこで渡来銭を真似た
    銅製の私鋳銭(模造銭)が全国各地、広い範囲で鋳造された。これらの鋳造期間は、
    室町中期から江戸初期までの長期間にわたっており、きわめて多様なものが現存し
    ている。
      左は、中国唐の「開元通宝」、右は宋の「祥符元宝」を真似て作られた私鋳銭
    (左:23.9mm,3.1グラム 右:23.9mm,3.5グラム)である。これらの私鋳銭は渡来
    銭をそのまま型どるなど、母型から正式な過程を経て鋳造されたものではなく、粗
    悪な鋳貨であるために、渡来銭の良貨と区別されて、鐚銭(びたせん)とよばれる
    ようになった。そして鐚銭の受け取り拒否や撰銭(えりぜに)といった割り増し要
    求が15世紀後半になると頻繁に行われるようになる。16世紀末には良銭1枚が悪銭
    (鐚銭)2〜10枚にも相当していた。
    
  9. 中国渡来銭 (左から)永楽通宝 建炎通宝 宣和元宝 嘉祐元宝 至和元宝
    永楽通宝
    輸入された明銭。他の明銭と比較して輸入量が多く、形や品質もほぼ一定していた
    ため、東国を中心としてひろく流通した。永楽銭が広まると領主の取り立てる課税
    も永楽銭で計上されるようになり、その結果、東国では永楽銭による貫高を永高と
    呼ぶに至った。江戸初期まで流通した。
    
    建炎通宝
    真書体と篆書体とがあり、書風の変化が多い。23.2mm 3.2グラム
    発行鋳造年 1127年〜1130年(南宋)
    
    宣和元宝
    真書・篆書体あり。書風に変化があるが、いずれも現存は少ない。
    発行鋳造年 1119年〜1125年(北宋末)
    
    嘉祐元宝
    真書・篆書体あり。
    発行鋳造年 1056年〜1063年(北宋)
    
    至和元宝
    
  10. 上代方金(左)上代判金(右)
    いずれも16世紀末、日本で鋳造された金貨である。当時の金貨は不定量目であり、
    裏面に量目が墨書されている。のちに一定金額を表す計数貨幣へと発達する前史と
    して貴重な資料である。上代方金(左:7.77×4.02cm, 34.7グラム)は長方形の金
    板であり、楕円形の金板が多いなかで、現存する方金としてきわめて貴重な古貨幣
    である。裏面には九匁四分と墨書されており、表面には槌目のほかに雁金模様の小
    印が施されている。上代判金(右:12.92×7.82cm,166グラム)の裏面には四十四
    匁一分と墨書されており、足利将軍家の彫金師「後藤家」のサインがあり、天正大
    判の前身として注目される。
    
  11. 駿河墨書小判(左) 天正大判(右)
    天正大判(右)
    豊臣秀吉が作った物で、恩賞金として鋳造されたものといわれている。
    44匁(165グラム)   品位70〜74%
    
    墨書小判(左)
    慶長小判の先駆をなすもの。駿河国の中村氏(豊臣家家臣)によるものとみられる。
    16.7グラム  品位88%
    
  12. 永楽通宝御紋金銭(左上) 太閤円歩金(左中) 天正通宝銀銭(左下) 天正大判(右) 太閤円歩金(左中) 小桐紋5個。中央に花押あり。 4.5グラム、85%。 永楽通宝御紋金銭(左上) 豊臣秀吉が島津征伐の際、戦功のあた大名にあたえたもの。現存する唯一品といわ れている。
  13. 慶長小判(左上) 慶長一分金(左下) 慶長大判(右)
    
    徳川家康は、政治機構の整備に先だって、慶長6年(1601年)5月、全国流通を目
    的とした金、銀貨を鋳造し、これを中央統一貨幣として発行することとした。慶長
    金・銀がこれである。慶長金には、大判、小判、一分金がある。慶長大判は、慶長
    6年から元禄8年の94年間に16,565枚鋳造された。一枚の両目は44.1匁で品位は小
    判と関係なく定められ、一般に使用される場合は金の含有量により他の通貨に換算
    された。その割合は、大判一枚で7両2分といわれている。品位80% 165グラム
      制作者後藤四郎衛の筆になる慶長大判は白米5石5斗買えたという記録がある。
    現在の貨幣価値にして40万円くらいであるが、当時庶民の主食が米とは考えられな
    いので、現在の米の感覚でははかれない。
    
  14. 慶長小判(左上) 慶長一分金(左下) 慶長大判(右)
    慶長小判(左上・左下)左右に細い線状の切込みがあり、これをゴザ目という。ゴ
    ザ目は天正大判の頃は槌目といい、大判を引き延ばす際に槌でたたいたといわれて
    いるが、後に装飾用に目をつけるようになったといわれている。それがゴザ目へと
    変化してきたが、ゴザ目は装飾用であるとともに、内容に偽りがないという証明に
    もしていたようである。
    品位84% 17.7グラム
    
  15. 慶長豆板銀(上) 慶長大黒丁銀(下)
    慶長銀丁銀はなまこ形で重さ30〜50匁であり、大きさは一定ではない。豆板銀は重
    さ、形、大きさとも一定ではなく、円い小型のものが多く、小粒ともいわれた。両
    銀とも秤量貨幣で、貫、匁、分、厘の単位で用いられた。丁銀(下)は高額貨幣、
    豆板銀(上)は低額貨幣として用いられた。品位は80%。当時の交換率は金一両=銀
    50匁であった。
    
  16. 寛永通宝(左) 慶長通宝(中) 元和通宝(右)
    寛永通宝
    寛永13年(1636)、多量に鋳造され、これで金、銀、銅の三貨が出揃い、我が国最初
    の貨幣制度が確立した。当時の公定相場は金1両=銀50匁=銭4貫。永楽銭の使用
    は禁止された。
    
  17. 金含銀二分判(左上) 福知山三十匁銀(左中) 福知山十五匁銀(左下) 盛岡七匁銀判(右上) 但馬壱両銀判(右下) 金含銀二分判(左上)
    小判と同型式であるが、表面に「金弐分」裏面に「金含銀」の刻印あり。金分を若
    干含んだ銀貨として金座内で試作されたもので、現存、本品のみである。
    
    福知山三十匁銀(左中)
    表面に「銀三拾匁」、裏面に「福知山」とある。銀三十匁とあるが、実体は三匁二
    十八であり、10分の1にすぎない名目的なものであり、おそらく試鋳のものであろ
    う。
    26.4×19.3mm 12.3グラム
    発行鋳造年代 江戸時代末期
    発行鋳造地 丹波福知山
    
    盛岡七匁銀判(右上)
    表面に「七匁」裏面右下部に「山」字の極印が打たれている。八匁銀判製造の折、
    試鋳されたものといわれている。現在本品を見るのみの大稀品。
    72.2×51.0mm 26.25グラム
    発行鋳造年代  慶応4年(1868)
    発行鋳造地 盛岡
    
    但馬一両銀判(右下)
    表面上部に「壱両」下部に「但馬」の文字があり、小判(金製)の形式ににている。
    記録を求め得ないが、但馬生野銀山で製造のものと推定される。
    71.5×38.0mm 14.75グラム
    発行鋳造年代 江戸時代中期(17〜18世紀)
    
  18. 安政一分銀(左上下および右下)メキシコ銀(右上)
    
    安政5年(1858年)6月、幕府は開国し、諸外国と条約を結んだ。洋銀1枚(1ドル、
    87%、7.2匁)と日本の一分銀三枚と交換となった。この後、7匁以上の両目のある
    洋銀は国内で三分で通用させることとしたため、安政6年12月、7匁以上の洋銀に
    「改三分定」と刻印した。
      安政条約により、外国貨幣と日本貨幣との交換や輸出が認められた。外国人が洋
    銀を日本に持ち込んで1枚を日本の銀3枚と交換する。その上で、銀4枚と小判1
    枚と交換する。小判1枚を再び銀4枚と交換する。その結果として持ち込んだ3枚
    の洋銀が12枚の銀となる。このために当時、横浜から海外へ流出した金は30万両と
    いわれ、全国規模では50万両の金が流出したという計算もある。
    
  19. 万延二分金(左上) 万延一分金(左下) 万延小判(中) 安政小判(右) 万延二分金(左上)万延一分金(左下)万延小判(中) 万延元年4月、小判、一分金を鋳造した。 安政小判(右) 品位57% 9グラム

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