ケインズ/ハロッド文書

吉川 洋 (東京大学経済学部)

   東京大学経済学部の図書館は数多くの稀覯書や貴重な資料を所蔵している。300余冊のアダム・スミスの蔵書からなる「アダム・スミス文庫」は1920年新渡戸稲造教授がロンドンで購入、前年4月に法科大学から独立した新生経済学部へ寄贈されたものである。こうした「宝物」の中から今回は「ケインズ/ハロッド文書」を紹介することにしたい。

   ケインズ(John Maynard Keynes、1883-1946)は改めて説明するまでもなく、1936年に刊行された「一般理論」により「ケインズ革命」を起こした正にヒーローであったが、アカデミズムの枠には到底収まらない活動家であり、とりわけ大蔵省との関係が深かった。

   一方ハロッド(Roy Harrod、1900-1978)はオックスフォード最大のコレッジであるクライスト・チャーチで一生をすごした経済学者である。若き日にケンブリッジに遊学しそこでケインズの弟子となり以後ケインズと密接な関係を保った。1951年に刊行された「ケインズ伝」は伝記文学の傑作である。また経済成長に関する動学理論の創始者としても知られている。

   さて東京大学経済学部図書館に所蔵されている「資料」は、第二次世界大戦中(1941-1943年)ケインズが大蔵省において戦後の国際通貨システムの、再建-これは国際通貨基金(IMF)と世界銀行として結実し今に至っている-に向けアメリカを交渉相手としながら悪戦苦闘していたころの文書が中心になっているが、その他にもさまざまな覚え書きや手紙が含まれている。こうした資料の中で最も古いものは1922年7月7日付のケインズからルンシマン宛ての手紙である。ロンドンにおけるケインズの住処であった46 Gordon Square,Bloomsburyから出された手紙には「喜んでハロッド氏に会いましょう。彼から私に連絡するようにしてください」とある。この年オックスフォード、クライスト・チャーチで現代史と経済学担当の講師となったハロッドはケインズの下で経済学を本格的に学ぶ決意をするのだが、この手紙はケインズ/ハロッドの初対面を仲介したものに他ならない。ほどなくゴードン・スクエアでケインズに対面したハロッドはめでたくケンブリッジに行くことになる。「あなたが来学期ケンブリッジにくることになり喜んでいます」(8月15日ケインズからハロッド宛書簡)。こうして20世紀を代表する経済学者ハロッドが誕生した。

   ケインズとハロッドの親交はこの後1946年のケインズの死まで続いた。「資料」には第二次世界大戦勃発依然ケインズからハロッドに宛てた手紙が数通含まれている。例えば1931年1月6日付の手紙ではロンドンで政府の仕事に関わることに就いて相談したハロッドに対してケインズ自身がしていたような「オックスフォードとロンドンの二重生活」を薦めている。

   同じく1933年5月3日付の手紙。ケインズはオックスフォードで講演してくれというハロッドの依頼を丁寧に断った。「自分の時間の主人でいるためには本来欠くべき事を講演でしゃべるのはできるだけ避けるという厳格なルールを作る必要があると考えています。一度でも講演等をやり始めると自分でも訳が分からなくなってしまうでしょう。(Iam a lost man)。」 ケインズはその生涯でいくつかの重要な講演を行っておりその記録も残されている。しかしながらケインズが基本的にしゃべることよりも書くことを重視していた-もちろん実務的な交渉は別として-ことがこの手紙から分かる。

   「資料」にはこのほか王立経済学会誌「エコノミック・ジャーナル」1938年9月号に掲載されたケインズの論文「政府による食料・原材料備蓄政策」の抜刷もある。「個々の企業にとって原材料を余裕を持って保有する誘因が存在しないことは自由競争の下で市場システムがもつ顕著な欠陥である。」という書き出しで始まるこの論文は、戦争準備としてイギリス政府が食料や原材料をできるだけ英本土に備蓄する必要性を説いたものである。1936年に刊行された「一般理論」では、自由放任(レッセフェール)の下で市場経済が深刻な不況という機能不全に陥ること、そうした時には政府による積極的な財政・金融政策が使われる必要があることを明らかにしたケインズは、この論文では食料・原材料の備蓄というやや特殊な、しかし戦時には重要な問題について政府の役割を説いた。政府が補助金を出すことにより、カナダ・オーストラリア・インドなどに保有されている食料・原材料をイギリス本土に在庫させる誘因を作り出すべきだというのである。英連邦諸国からイギリスへそうした物資を大量に運送することは、重要な産業であった英商船団に需要を作り出すというメリットもある。

   こうしたケインズの主張を読んでいると生涯を通して彼の脳裏を一瞬たりとも去ることがなかった「イギリスの国益」という視点がひしひしと伝わってくる。ケインズにしてもハロッドにしても決して偏狭な国粋主義者ではなかった。しかし彼らは常に大英帝国の経済学者として英国の「国益」のために考え、そして発言したのである。このことは「資料」の中心である1941年から43年にかけての戦後の国際金融システム再建に関するケインズ/ハロッド文書・書簡はそのことをよく伝えている。

   1942年4月27日付で大蔵省から出されたハロッド宛の手紙でケインズは次のように述べている。手紙は戦後経済再建策に関するアメリカとの交渉についてハロッドが送った覚書に対する返事である。「私もアメリカとの交渉においてはじめからわれわれの抱える問題を明らかにするべきではないというあなたの意見に賛成です。」 こうしたアメリカとの交渉についてのさまざまな狡猾ともいえる配慮はケインズ/ハロッド間のやり取りのほか、「資料」に含まれるハロッドと政府高官との書簡にも随所に見出される。

   一方アメリカ側もイギリスの動向を十分に警戒していた。例えばモートンからハロッド宛の手紙(1942年4月17日付)にはイギリスを「二等国」とみなし「もしアメリカとパートナーを組むつもりならイギリスがあくまでもa very junior partner であることを知らしめるべきだ」と主張するアメリカとの交渉に当たったが、結局アメリカの圧倒的な力の前には屈せざるをえなかった。そして難航した交渉の末戦後ほどなくして世を去ることになるのである。

   しかし「資料」にみられるようなケインズ/ハロッドの構想は決して無に帰したわけではない。その成果は今日国際通貨基金(IMF)、世界銀行として結実している。IMFは国際的な流動性危機に陥った国——簡単に言えば外国との決済に使うための「お金」が不足して困難に陥った国を救済するための国際機関であるが、近年におけるロシアへの援助、また現在進行形のタイ、インドネシアや韓国への融資など広く知られているところであろう。「資料」は、対戦中にケインズ/ハロッドらがこうした国際機関を構想し始めたころの経緯を知るための貴重な文書・書簡を数多く含んでいる。

   以下限られた紙幅の中で「資料」には著名な経済学者がハロッドに宛た手紙も数多く含まれている。エッジワース、アーヴィング・フィッシャー、ハイエク、ロバートソン、ジョーン・ロビンソンなどいずれも今世紀を代表する経済学者である。ハイエクとの往復書簡は哲学者ヴィットゲンシュタインに関するものであり専門家には興味深いものであろう。同じく「中立的技術進歩」に関するヒックスからの手紙やケインズと同時代に親古典派正統派の立場を守ったロバートソンの手紙なども専門家には興味深いものである。今世紀最大のアメリカ人経済学者といっても過言ではないアーヴィング・フィッシャーからは面識のないハロッドに宛て「自分の著書が何冊か余っているのでもし欲しければ知らせて下さい」という簡にして要を得た手紙が残されている。末尾には、"The only price of the booklet is that you agree to read it!" とある。ケインズ、ハロッドはじめイギリス人の書簡が親しい間柄でのやり取りですら慇懃であるのに対してフィッシャーの手紙には、いかにもアメリカ人らしい率直さがあふれている。はなはだ纒りのない駄文となってしまったが、「ケインズ/ハロッド資料」が一人でも多くの関心を持つかたがたに利用されることを願って紹介の筆をとった次第である。


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